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光明寺 (川崎市) : ミニ英和和英辞書
光明寺 (川崎市)[こうみょうじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひかり]
 【名詞】 1. light 
光明 : [こうみょう]
 【名詞】 1. glory 2. hope 3. right future 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [し]
  1. (n-suf) city 

光明寺 (川崎市) : ウィキペディア日本語版
光明寺 (川崎市)[こうみょうじ]

光明寺(こうみょうじ)は、川崎市高津区二子一丁目にある真宗大谷派寺院山号は大悲山(だいひさん)。かつては二子村にあったが江戸初期の1669年寛文9年)に大山街道矢倉沢往還)に面する現在地に移された。
== 歴史 ==
1601年慶長6年)の創建といわれる。
1669年(寛文9年)幕府の命により公用旅行者用の伝馬人足の常備と宿泊施設を目的として南二子から現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来1874年明治7年)から1876年(明治9年)まで「二子学舎」の名称で学校として使われた。
1856年安政3年)「光明寺史抄」によれば光明寺は戦国大名武田氏の家臣が当地に寄寓し、小庵を結んだのを始原とするというのである。市域の旧家でもと武田氏や北条氏の家臣であり、主君滅亡の際四散し当該地に土着したという伝承をもつ家は多い。それらの多くは帰農して近世村の草分け百姓となり開拓に従事したのであるが、剃髪してその余生を主家の菩提供養に過ごすというのが「専浄」の生き方であった。
大和市に所在する善徳寺は武田の残党「善徳」が草庵を結び、1613年慶長18年)教如上人より阿弥陀の絵像を拝受して真宗寺院となったが、同じケースが光明寺起立の縁起である。
東西本願寺を頂点とする真宗教団体にとって慶長・寛永期は地方寺院に対する本末関係の確立とその統制強化の時期にあたり、本願寺・大谷両派とも積極的に地方道場の寺院化を進め、自派とり込みを計っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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